ボランティアってそもそも『無償』という意味ではなく、『志願兵』ということ。知ってました?
2018/09/25
『ボランティア』って、なんだろう・・・?
と、考えることが多くなったのはきっと東京オリンピックパラリンピックのサポートスタッフのボランティアが範囲の広さやそのエグいくらいの内容だからだろう。
そもそも『ボランティア』って『無償』というわけではない。
もともとは『ボランティア』は英語で『志願兵』という意味で、自ら志願することを意味しています。
実際、『有償のボランティア』もある。よく知られているところのは、
『青年海外協力隊』です。
一般の給料と比べれば低いですが、外国での生活費は支給されますし、国内でも一定程度のお金が積み立てられる。
決して『無償の奉仕活動』というわけではない。
前もって言っておくけど、無償の奉仕活動をしている人を否定しているつもりはない。
無償のボランティア活動も素晴らしいと思う。
災害時には全国からボランティアが集まり、自分の時間を費やし、人のための作業・活動をに従事する。
それはあくまで『自分自身』で望んで行う行為。
ちなみに。
『ボランティア』ですからもちろん、労働基準法の管轄外となります。
労働基準法では1日の労働時間や休憩時間、交通費のルール、最低時給などが細かく定められていますが、ボラインティアはその枠内でないことも知っておきたい。
あくまで『ボランティア』。
無償だろうと有償だろうと。
誰かのために役に立ちたい!という想いを、どこかの大きい組織がうまいこと利用して、その想いをちゃっかり利用して思いやり搾取する・されることがないようになってくれたらと願う。
ただ、なんらかの障害を抱える人や、高齢者など、『有償』だとなかなかお願いしづらい・・・というのもわかります。
お金がかかることだから。時間=お金。
こんな考え方もある。
社会貢献という名の下で無償で働く。
それがボランティア活動。
無償で働く、又は、有償で働くの違いに責任範囲の違いがあるだろうか。
無償で働くからこれぐらいで良いだろうとか思わないのだろうか。有償の場合は、お客さんが満足する仕事をしないとお金をもらえないし、後々までの信用に関わる。だから、いい加減な仕事は出来ないという責任を感じる。
無償のボランティア活動として同じ仕事を受けたならば、仕事の質と責任はどうなるのだろうか。特定分野の専門家がその分野の仕事を無償で行うならば、仕事の質は変わらないかもしれない。仕事に誇りを持っているからいい加減な仕事は出来ないと思っている。
しかし、
専門家で無い人が無償で奉仕する仕事の質には、疑問が残る。奉仕を受ける人は、無償だからそれだけで十分と思っているのだろうか。
多くの人はそう思うかもしれない。そこには、仕事への責任という概念がない。
誰にでも出来る仕事でのボランティア活動なのか、その人が持つ専門性を生かしたボランティア活動なのかで仕事の質の問われ方が違ってくる。責任に関しては、無償だからと言うことで問われないのかもしれない。
他人のために役に立つボランティア活動は、その結果が役に立ったか、立たないかで分かる。
自分の欲求を満たすためのボランティア活動は、自己満足の世界だけにとどまる。無償で仕事をするよりも有償でちゃんとした仕事をやる方がお互いにとって良いのではないかと時々思う。
責任がある仕事を心がけるボランティアであれば、私のような迷いはないだろう。
※参照コピペ
というもの。
一理ある気はする。
無償と有償の違いはまさにここ。
責任と質。
お金がかからない・もらわないのだからこれくらいの仕事量・活動量でいいだろう。
そんな想いにならないとは、言えない。
以前、あるフェスのボランティアサポートスタッフをやっていたとき、一緒にやっていた友人に言われた。
「ボランティアだからそこまでやらないほうがいい。」
目の前のお客様が凄く困っていそうな様子にたまらず首を突っ込んだら、自分も自分もとくるお客様の多さに自分なりに対応していたのを見た友人に言われた言葉。
「ボランティアだからそこまでやらないほうがいい。」
これは『頑張るな』という意味ではなく、
そこまで自分たちには『責任』はもてない、ということ。
ボランティア精神を真っ向から否定しているつもりはない。
逆に応援したい想いだ。
ただ、世間一般の『ボランティア=無償』という考え方の多さに危機感も感じている。
あくまで自己選択・自己決定。
ボランティアを無償でやります!といったからといってなんでもやるわけではないということ。
東京オリンピックパラリンピックのボランティア内容を見て感じたこと。
自分自身、やってみたい!と思えば、喜んでボランティアはする。
それだけは伝えておきたい。
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